浦島悦子さんは、1948年鹿児島県川内市に生まれました。
年齢は、2026年1月時点で77歳です。
1990年から沖縄に住んで、文筆活動を続けてて、特に1998年以降は居住地区に突然降って湧いた海上基地建設をめぐる住民運動に深く関ります。
そして
1991年、「闇の彼方へ」で新沖縄文学賞佳作
1998年、「羽地大川は死んだ」で週刊金曜日ルポルタージュ大賞報告文学賞受賞
となります。
沖縄に移住をし、山歩きをしてる時に山が破壊されてる事に気付き、これは基地と深い関係がある事が分かり、1992年にやんばるの山を守る連絡会を立ち上げました。
その後、浦島悦子さんは1996年4月の橋本龍太郎さんとウォルター・モンデール駐日アメリカ大使の会談がきっかけで海に目を向ける様になります。
当記事では、浦島悦子さんが何者なのか?について書きました。
浦島悦子は何者|wiki風経歴は?年齢や出身は?
浦島悦子さんですが
- 1948年に鹿児島県川内市に生まれる
- 1990年から沖縄に住んで、文筆活動を続けてて、特に1998年以降は居住地区に突然降って湧いた海上基地建設をめぐる住民運動に深く関ります。
- 1991年、「闇の彼方へ」で新沖縄文学賞佳作
- 1998年、「羽地大川は死んだ」で週刊金曜日ルポルタージュ大賞報告文学賞受賞
年齢は2026年1月16日しんぶん赤旗にて、77歳となっていました。
沖縄に住むまでは東京・奄美大島での暮らしをされていました。
その他の著書は
著書『辺野古 海のたたかい』(インパクト出版会、05年)『豊かなシマに基地はいらない』(同、02年)『やんばるに暮らす』(ふきのとう書房、02年)、共著書『ジュゴンの海と沖縄』(高文研、02年)
活動家の一面もある?
浦島悦子さんは沖縄に移住をし、山歩きをしてる時に山が破壊されてる事に気付き、これは基地と深い関係がある事が分かり
沖縄の人たちが基地のない沖縄を目指して復帰運動をやったのに基地が残されてしまった、ということに対する怒りをしずめるというか、日本政府が沖縄に高率補助金といって、公共事業について他の地域では5割6割補助の公共事業を、沖縄では 8割9割の補助率でやって、必要以上の開発がおこなわれていて、自然が破壊されているのに気がついたんです。
引用:https://www.j-wave.co.jp/original/tokyounited/archives/the-hidden-story/2022/05/13-104044.html
そして、山を守る運動を同じ想いを持つ人と始め、1992年の復帰20年の時に「この20年は何だったのか、自然破壊の20年だったじゃないか」と「やんばるの山を守る連絡会」を立ち上げました。
海に目を向ける様になったきっかけは?
その後、浦島悦子さんは1996年4月の橋本龍太郎さんとウォルター・モンデール駐日アメリカ大使の会談がきっかけで海に目を向ける様になります。
その時に浦島悦子さんは佐喜眞美術館さんに勤務してて、普天間基地を返すけど辺野古に移設するという話が持ち上がり、移設先となってる辺野古というのはどんな所だろうと佐喜眞美術館の人達と行きました。
「橋本モンデール会談というので、普天間基地を5年から7年以内に返還すると。ただし、県内移設という条件がついていた。ちょうどそのときに、私は佐喜眞美術館で働いていたんです。普天間基地に隣接している私設=個人、佐喜眞さんがやっている美術館ですが、佐喜眞さんが普天間基地の一部を軍用地になっているのを返還させて作った美術館なんですよ。そこで働いていたときに、普天間基地を返すが辺野古に移設するという話が持ち上がって、移設先として上がっている辺野古というのはどんなところだろう、行ってみようよ、ということで佐喜眞美術館の人たちと行ったのが最初です。」
初めて辺野古に行った時には、基地の移設に反対する活動が始まってて、その活動の中心的な人の比嘉盛順さんが船を出してくれ、辺野古のイノー=サンゴの内海に平島という無人島に連れて行ってくれました。
その島は、沖縄の島の浜はサンゴの砕けたも・貝殻の砕けたものでできてるので本当に真っ白で、比嘉さんがそこの砂に対し
と言った事で、真っ白な砂の美しさと同時に浦島悦子さんの胸に響きました。
左翼説はデマ?
浦島悦子さんに左翼の噂が出ています。
以下の様にしんぶん赤旗に浦島悦子さんの名前が載ってたからになります。
いーなぐ会(名護市政を考える女性の会)の浦島悦子さん(77)は、「平和と自然がないと(市民は)生きていけない」と強調。「クミコ市長を誕生させ、名護市を世界の『平和のさちばい(さきがけ)』にしよう」と訴えました。
ただ、浦島悦子さんが左翼なのかどうか?に関しては不明です。
以上が、浦島悦子さんに関する記事ですね。

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